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自由に話すということ

今週もあっという間に1週間が終わりました。

今日はダンサージュのクラスを終えてから、シンガポールから日本のコンテンポラリーシアターのリサーチにきているのHoo Kuan Cienに会いにいってきました。
彼は今セゾン文化財団が行っている「レジデンス・イン・森下スタジオ、ヴィジティング・フェロー」の一環として、1ヶ月間日本に滞在しています。先月末に彼がおこなったパブリック・トークに私が参加したことがきっかけで、今日はAAPAの上本さんと一緒にあってきました。

彼と話していて思ったことはいろいろあるのだけれど、パブリック・トークでも彼は社会的な舞台の役割という話をしていて、そのことが自分のなかでひっかかっていました。

シンガポール人にとって「コンテンポラリー」としての舞台芸術は社会でタブーとされていることを自由に表現できる場として役割をになってきていて、そこに彼自身も興味をもったといっていました。
なので日本では舞台表現がどんな役割をもっているのか、何のためにアーティストは作品をつくっているのかに興味をもっているということをいっていました。

私自身は自分のなかで何か社会に対してすごい抵抗心や訴えたいことがあるから舞台をやっているのではないし、同性愛とか、人種とか、戦争とか、そういう社会的大きなテーマをかかげられるわけではないし、そこにリアリティーはない。舞台作品ではたしかにそういう社会への反発がエネルギーになって、影響力をもつ力強い作品がつくられてきたのかもしれないけれど、自分はそういうものをつくる必然性がない。

ただもっと自由に自分の面白いとおもうことを伝えていきたいというだけなんだと思う。
表現するとか、創造するとかが限られた人のものではなくて、
自分はこう感じるとか、こういうことを考えてるとか、そういう話が自然にできるような生活をしていきたいとおもっているということ。 
そういう社会が素敵だなと思うということ。

今ARDAで関わっているアーティストの新井さんが長野でやっているワークショップとパフォーマンスの案内をこのまえいただいて、そのタイトルと内容が素敵だなと思ったのでご紹介。

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CCC kaleidoscope vol.5 巻上公一×新井英夫のワークショップとライブ・パフォーマンス
「声とからだ、ちがって、いっしょ」
声やからだは十人十色。人は声やからだの動きによって感情や個性や存在を表現し、またそれらを知覚できます。そして、言語や理性以前にある素朴な存在とし ての声やからだには、感情や記憶、経験を伝達する豊かな語りの能力、自分と他者を繋ぐ媒体としての機能が本来的に備わっています。CCC kaleidoscope vol.5では、市民参加型&バリアフリーのワークショップと公演を通じ、状況や環境、年齢、性別、障がいの有無を超えて、一人ひとりの潜在的な想像力・ 創造力・表現力をひきだしながら、言葉によらないコミュニケーションの可能性を探ります。それぞれに異なる声を響かせ、それぞれに特徴をもつからだそのも ので対話することで、差異を認め合い、また共感し、わたしもあなたも大切で特別な存在であることに気づいてほしいと思います。そして、わたしとあなたはそ れぞれにちがうけれど、よろこびやかなしみ、感動や恐れ、記憶や経験を共有できる、いっしょの存在であることを改めて感じてください。

 「超微妙―ここは近くにあって、見逃している場所―」
わ たしとあなたは微妙にちがって、微妙におなじ。笑い方も身長も腕の長さも手のひらの大きさも微妙にちがうけれ ど、微妙におなじ。あなたの声がふるえるとき、あなたの心のざわめきを知るでしょう。わたしの背筋が伸びるとき、わたしのまっすぐな気持ちを感じるでしょ う。近くにあるのに気付けなかった微妙な音、動き、場所、あの人の気持ち。言葉以前にある声、理性以前にあるからだを使って、アーティスト、出演者、鑑賞 者が、世代や環境、障がいの有無を超えて対話を試み、超微妙な感覚を研ぎ澄ませるライブ・パフォーマンス。

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上記の内容に興味のある方はこちらのページへ

Kuan Cienに日本のアートの印象はどう?という話を聞いて、そこから日本は社会的な大きなテーマというより、個人的な物事から作品をつくっているんだと感じたということをいっていて、私もそう思うなと思いました。 

アートや文化の役割は国によって違うものだと思う。
でもどこにおいても大切なことには変わりないと思う。