自分がダンスを教えるとなったとき、自分が学んできたテクニックや型を教えるということと、
即興などにある自分で踊るということの楽しさと、どういうバランスで伝えたらいいのか、
誰に何をつたえたいのか、難しいなと思う。
何のためのクラスなのか、人が踊るために何が必要なのか。
ふと黒沢美香さんのウェブサイトを拝見。
定期クラスがこんなふうに紹介されていました。
「経験者、未経験者問わず敢えて混沌としたままマゼコゼとその日の気分でクラス内容が変更していきます。クラスでのトレーニングは言い換えれば〈車を整備する〉〈ピアノの調律〉のように考えていて何処にどうドライブするか、どんな音楽を奏でるかはあなた自身の身体が決断することとして、それを互いに見合いダンスへの姿勢が問われます。またゼロ(真っ直ぐ)にこだわり、真っ直ぐがあるからそれを縮める、折る、ねじる、伸びるがクリアーになると考えます。クラスで出会いがあり、そこから個人への活動に繋がっていけば嬉しく思ってます。」
クラスの捉え方が素敵だなと思いました。
それとは別に月に1度開催されている「きびしいお稽古」というのがあり、そこでの「基礎トレーニング」についての考えが書かれていました。
その中で、
「基礎がある基礎を知ることがダンスにつながるものではありません。基礎がなくてもダン スは成立しますし基礎があってもダンスにならないことはあります。つまり基礎とダンス は別のこと違うことです。」
と、基礎がいつもダンスに直接つながるわけでないことを、はっきり言っています。潔い。
コンテンポラリーダンスは、決められた型ではなくてその人がその人のすべてを使ってダンスすることに、感動するのだと思う。それぞれの異なる身体。そのうえで、テクニックを学んできたことが、壁に感じることがあったり、日々の稽古ってなんだろうと思えてしまったりすることがある。コンテンポラリーダンスにおいて日々の稽古ってなんだろう?ということを考えてしまったり。
今回マレーシアに旅行にいったのもあって、自身で稽古をせずに1ヶ月がたってしまった。
多分、今までで一番長く稽古から離れていた。
そうして、また稽古にもどろうと思うと、身体が前と違うことをとても感じる。
日々の稽古ではがんがん踊っていたわけではないけれど、ちゃんと身になっていたのだとあらためて思う。
黒沢さんの稽古紹介で、
「基礎は静止~微細~大胆なコントロールを身体が選択で きる能力を尖らせてくれるのでダンスの幅や深度を広げます。例えばより一層ドライブで きるよう車の整備をする。確実な音を出すようピアノの調律をする。(ボコボコ車でも愉 しくドライブできますしおもちゃのピアノでも音楽になるのを承知でここに説明していま す。)このクラスはダンスのHow toクラスではなくダンスを加速する身体の知性を知覚するクラス」
と説明していました。
日々の稽古と踊ることを別々のこととして、でもつながっているものとして、
もう一度自分も踊り始められたらと思います。